遠雷・外 屋外へ出た途端、威勢のよいかけ声が聞こえた。屋敷の中央、広く取った中庭で主が鍛錬に励んでいるのだ。声には力が溢れ、合間に槍が鋭く空を斬る音がする。 (こりゃまた、随分と張り切ってるなあ) 肩を竦めた佐助は軒へと飛び上がった。屋根を伝って庭を見下ろす位置まで駆ける。瓦に膝をついて覗き見た庭では諸肌を脱いだ幸村が二槍を振るっていた。細身ではあるが無駄なく筋肉のついた身体は発条のように柔軟かつ強靭で、見慣れている筈の佐助をも感嘆させる。滴るような汗を弾く張り詰めた肌は若々しくも力強く、彼がまさにいま肉体的な高みに到達しようとしていることを見る者に悟らせた。 それにしても、と佐助は目を細めた。鍛錬は主の日課ではあるが、これは久しく見ないほどの熱の入りようだ。つい先ほど耳にした話の信憑性を裏付けるような幸村のありさまに佐助の胃は重くなる。 「うおおおお……ッ!」 腹の底に響くような気合と共に紫電一閃の弧を描いた二槍の先にぼっと炎が灯る。慌てて佐助は屋根から飛び降りた。 「ちょっと旦那!屋敷のなかでは発火禁止って言ったでしょ!」 「おお、戻ったか佐助!…っと、済まぬ、つい気が入り過ぎてしまった」 槍を下ろし、照れたように幸村が破顔する。悪びれない様子にやれやれと肩を竦めて佐助は主に手拭いを差し出した。 「汗拭いて顔洗ってきてくださいよ。おやつ用意しときますから」 「おやつ?もうそんな刻限か」 「もうって…旦那、いつから鍛錬始めたの」 「昼餉が終わってすぐだ」 朝の早い幸村が昼餉を取る時刻は概ね午の上刻頃だ。ということはかれこれ二刻は一人あの勢いで槍を振るっていた計算になる。まったくもって尋常ではない。胃の痛みが頭にまで伝播した気がして佐助は眉を寄せた。忍びの憂鬱など気付いた様子もなく、幸村はぱたぱたと庭の端にある井戸へ駆けてゆく。その後姿を見送った佐助はひとつ溜息を落とし、気を取り直して厨へと足を向けた。 「はいどうぞ。今日は大亀屋のお団子ですよ」 「おお!」 濃いめに淹れた番茶とみたらし団子を山盛りにした皿を乗せた盆を差し出すと、幸村はぱっと顔を輝かせた。甘いものに目がないのは昔からで、こういうところは変わってないのになあとしみじみしてしまう。 「…そういや、旦那」 「ん?」 団子を頬張ったままこちらを振り向いた幸村に、佐助は何気ない風で言葉を継いだ。 「昨晩、客人があったって聞きましたけど」 大きく目を見開いた幸村が、ぐ、と苦しそうに顔を歪めた。予測していた佐助がすかさず差し出した茶を流し込み、げほげほと咳き込む背を軽く擦ってやるとようやく落ち着いたらしい。 まったく、日の本一の兵とまで謳われた人間が団子を喉に詰まらせて窒息死だなんて、笑い話にもなりはしない。 縁側に手をつき涙目でこちらを睨む幸村を見下ろし、佐助ははあと嘆息した。 「…他言無用と言っておいたに…!」 「あー責めちゃ駄目ですよ、俺様が聞き出すの上手過ぎるだけなんで」 佐助にその「客人」の情報をくれたのはこちらに来てから雇った若い女中だ。留守中変わったことはなかったかと尋ねた佐助に少し視線を泳がせた時点で、幸村の命令は破られたも同然だった。 「眼帯をした、えらい男ぶりの良い殿方だったらしいじゃないですか」 俺様ちょうどひとり、そういう御仁に心当たりがあるんですけど。 しれっと言い放った佐助に、幸村の顔がみるみる真っ赤になる。 「…っ、意地が悪いぞ佐助ぇ!」 「…やっぱり独眼竜の旦那なんだ…」 出来れば外れていてほしかった、と佐助は天を仰ぐ。 独眼竜の異名を持つ奥州の国主は自他共に認める真田幸村の好敵手だ。かつての、と称するべきかもしれない。豊臣の世となり大名間での争いがすべて禁じられた今、幸村とかの竜が刃を交える機会はもはやないに等しい。そのことで主が一時ひどい気鬱に陥っていたことを佐助は間近で見て知っている。それほどに強い執着だった。当初は強敵を得た喜びと闘志のみだった筈だ。そこに程なく敬意が加わり、伊達との盟約が交わされた後は幸村は伊達政宗に対して明らかな好意を示すようになった。時を追うごとに顕著になるそれに気を揉まされた日々が佐助の脳裏に蘇る。 ここ数年顔を合わせる機会すらなく、ようやく幸村も吹っ切れたかのように見えていたのに、どうして今更。よりにもよって、たった一日半、自分が幸村のもとを離れている時に限って。 「なんでまたそんなことになった訳?」 「お館様の遣いで遠出をした帰りに偶然お会いしたのだ」 「偶然って…どこで」 うむ、と幸村は少し渋い顔になった。 「東の大門のあたりだ。屋敷を抜け出してお一人で散策しておられたらしい」 「そりゃまた…相変わらずだねえ竜の旦那も」 竜の右目もさぞかし胃を痛めていることだろう。強面の側近に奇妙な親近感を覚えつつ、佐助は先を促した。 「日が暮れてしまい、灯りがなくて困っていたところでな。政宗殿がわざわざ送って下さった」 「ここまで?」 「ここまでだ」 「だってここ、伊達屋敷からは随分離れてるでしょ」 「そうなのだ。申し訳ないことをした」 まるで政宗が目の前にいるかのように幸村は済まなさそうな顔をしてみせる。佐助は頷いた。だいたいの事の経緯は把握出来た気がする。大方、離れがたさに負けた幸村が政宗に上がるよう勧め、同じく別れを惜しんだ政宗もその誘いに乗った。そんなところだろう。 「夜も更けていたゆえ…そのままお泊り頂いた」 言葉の最後、少し目を伏せて言った幸村に、勘付きたくもないことに勘付いてしまう。己が察しの良さを佐助は呪った。酸っぱいものを飲み込んだような気分で目元をうっすらと赤く染めた主を眺めやる。 「…俺様いなくて良かったんだか悪かったんだか…」 「何か言ったか、佐助」 「いえなんでもー?それで?なんか話したんですか、独眼竜と」 ふっと幸村が真顔になった。つられて佐助も視線を正す。 「ひとつ情報を頂いたぞ。豊臣殿が病だそうだ」 「っ、何だって…?」 「すでにお館様にはお伝えしたが、まだ口外するなとの仰せだった」 「ちょ、ちょっと待ってよ、旦那…!」 豊臣秀吉の不予などそう軽々しく口に出せる話ではなく、伊達の当主が武田の重臣に伝えたとなればそれなりの裏が取れていると思っていい筈だ。だが佐助の元にはそんな報告は上がってきていない。 「なんでそんな重要なこと、独眼竜は旦那に…?」 「…政宗殿のお考えは俺には分からぬ」 ほんの少し沈んだ声で答えた幸村に、佐助はがりがりと頭を掻いた。伊達の黒脛巾組が掴んだ情報を、真田忍軍が捉え損ねているとなればそれは佐助の失態だ。諜報の成否は常に紙一重、幸村が責めるようなことはないと分かっているが流石に心穏やかではいられない。 「―――すぐに裏を取るよ」 「頼む」 頷いた幸村は湯呑みへと手を伸ばした。口はつけず、器を手で弄ぶようにしながら庭をぼんやりと眺めている。どことなく熱に浮かされたような気配が伝わり、佐助は眼を眇めた。こんな主の姿には覚えがある。独眼竜と初めて刃を交わした後、かの竜の太刀筋の鋭さや雷気の凄まじさを繰り返し佐助に語っていたときの眼だ。 (焼けぼっくいに火がついちまった、ってとこか…) 我ながら的を射た例えだと思う。ここ数年の幸村は常にどこか鬱屈したものを抱え、泰平の世に馴染みきれぬ己を持て余していた。それは信玄の為に振るう槍を封じたためでもあり、竜との勝負を奪われたためでもあっただろう。そのふたつがまさしく幸村の生きる道標だったのだ。 「…また、お目にかかれるだろうか」 誰にとは問うまでもない。佐助は幸村の手から湯呑みを攫うと、冷めた中身を捨てて急須を傾けた。まだ微かに湯気の立つ茶がこぽこぽと音を立てて注がれる。 「ま、普通にしてちゃ無理でしょうね」 「であろうな。…だが、お会いしたい」 なんとしても、と幸村が呟く。 「あの方を忘れられるなどとどうして思えたのか分からぬ…」 独り言のような呟きを聞きながら、佐助は黙って湯呑みを乗せた盆をそっと主の方へと押し出した。そうして立ち上がると、夢から覚めたような顔で幸村が見上げてくる。 「佐助?」 「言ったでしょ。さっきの話、裏取ってきますよ」 秀吉の不調は今の豊臣政権を大きく揺るがす爆弾だ。豊家も必死で隠し通そうとしているであろうそれを探るには佐助自らが当たる必要がある。 「わかった。気をつけてゆくのだぞ」 「はいよ」 相変わらず忍びにかけるにはふさわしくない主の言葉だが、佐助もいい加減慣れてしまって今更反駁はしない。軽く頷いて立ち去りかけ、ふと足を止めて幸村を見下ろした。 「旦那は独眼竜に文でも書いてみたらいいんじゃない?」 ぽかんと目を見開いた幸村は、数瞬間を置いてぱっと顔を輝かせた。 「そうか、…そうだな!うむ!」 「ただしあんまり大っぴらにしちゃ駄目だよ。武田と伊達が繋がってるなんて豊臣に勘繰られちゃ大将にも迷惑がかかるからね」 「承知しておる!」 「うん。じゃ、俺様行くから」 返答は聞かず佐助は濡れ縁から降りた。庭を一蹴りして屋根へと飛び上がり、屋敷の外れまで駆けたところで足を止める。 「…っちゃあー」 余計なことを言ってしまった。眉間に寄った皺を押さえて呻く。余計な火種を蒔かぬためには、幸村には独眼竜のことはもう一度思い切って貰うべきだった。 ―――だって、あんまり旦那が嬉しそうだから。 幸村にも色々と思うところはあるのだろう。ただ単純に再会を嬉しがっている訳ではないようだったが、それでもいま主から伝わってくるのは詰まるところ喜びの感情だった。 それならば佐助にそれを阻むことは出来ない。少なくとも今はまだ、そうすべきときではない。伊達政宗との接触が幸村にとって不利に働くことのないよう立ち回るのが佐助の役目だ。 独眼竜の思惑は分からないが、あれも一筋縄でゆく男ではない。前途多難であろう幸村の道行きを思えば忘れかけていた胃の痛みがぶり返しそうになるが、佐助はひとつ頭を振ってそれを追い払った。竜と主の間にはなにかしらの特別な繋がりがある。それがなんと呼ばれるべきものなのか佐助は知らないが、それが一方向からのものでないのは確かだ。 「なるようにしかならない、ってね」 大きく息を吐いて目を閉じ、開く。己のなかでかちりと歯車が動く音がして、綺麗に気持ちが切り替わる。今為すべきことはひとつだ。困難な任務に意識の全てを傾け、佐助は宙へ身を跳ねさせた。 (2010.04.29)
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