弐期 #01より 遠征から戻った一軍を迎え入れた屋敷一帯は騒然としている。行き交う人馬の間を抜けるようにして進みながら伊達は苛立たしげな手付きで兜を脱いだ。 「政宗様」 心得た様子で半歩後ろに付き従っていた片倉が手を差し出してくる。伊達は無言で兜をその手に押し付けた。差し込む陽を反射して弦月の前立てがぎらりと光る。恭しい所作で主の兜を抱えた片倉にちらりと視線を走らせ、足を止めぬまま伊達は口を開いた。 「皆を広間に集めとけ。すぐに軍議だ」 「かしこまりました。…しかし政宗様はまず湯屋へ行かれますよう」 「はあ?何言ってんだ小十郎」 思わず伊達はまじまじと腹心の顔を見つめた。片倉は至極真面目な顔で隻眼の視線を受け止める。なるほど、川中島からここまで一昼夜駆け通して帰還したため、足の先から頭の天辺まで汗と土埃に汚れている。そして確かに伊達は綺麗好きな方である。だがそれはあくまでも平時の話であって、いくさ場では常に陣頭に立ち頭から敵の血飛沫を浴びて刀を振るっているのだ。今更汚れひとつを気にするような繊細さなど持ち合わせてはいない。そんなことは百も承知の筈の片倉が、殊更このようなことを言い出したからには何か理由がある筈だった。 「すでに支度はさせておりますから、どうぞ」 「回りくどいやり方は止せ。何が言いてえんだ」 さて、と片倉は小さく肩を竦めてみせた。伊達がまだ梵天丸と幼名で呼ばれていた頃、従兄弟と組んで悪さをしたときに見せた態度に良く似ている。 「小十郎」 尖った主の声にも片倉は落ち着いた表情を崩さなかった。 「少し、お一人で気を落ち着けられた方がよろしいのではと」 「なんだと?」 「これ以上は小十郎の口からは申し上げますまい。…さ、政宗様」 有無を言わさぬ傳役の態度に伊達は舌打ちした。こういうときの片倉の頑なさはよく知っている。何か捨て台詞を残してやろうとしたものの気の利いた言葉も思いつかず、もう一度大きな舌打ちだけを響かせて伊達は己が右目に背を向け、湯屋へと大股で歩き出した。 広い湯屋には伊達の好む香が仄かに焚き染められ、ささくれ立った気持ちを幾らか和らげた。伊達ほどの身分であれば世話をする侍女なり小姓なりが傍らに侍るのが普通だが、肌を人に見せることを嫌う伊達は着替えから何からすべて一人でする。 手早く手足や髪の汚れを落としてから湯桶へと身を沈める。手足を伸ばした伊達はほうと息を吐いた。 ぴちゃん、と蒸気に濡れた天井から伝い落ちる水滴が立てる微かな音以外はひどく静かだ。人が最も無防備になるこの場所は、警備がし易いよう周囲の建物からも隔離されている。 鼻先までを湯に潜らせ、伊達は目を細めた。伊達が通常好む温度よりはいくらか微温めに調節されているが、心身を休ませて疲れを癒すにはその方が適している。おそらくは片倉の指示によるものだろう。 傳役の苦みばしった顔を思い浮かべると同時に先程の諫言じみた言葉までも蘇り、伊達は顔を顰めた。 「小十郎の奴…」 気を落ち着けるってなんだ。俺は十分落ち着いてる。そりゃあ、豊臣なんぞに割り込まれて退く破目に陥ったのは腹立たしいが、伊達軍に損害は殆ど出ていない。武田と上杉の両雄を切り崩す機会を逸したのは惜しいがそれも仕切り直せば済む話だ。chanceはこの先何度だって訪れる。訪れなければこの手で作り出すまでだ。 ―――ではこのちくちくと胸を刺す不快な棘はなんだ。 泳ぐようにして湯桶の端へと移動した伊達は桶の縁へと両腕を乗せ、そこに顎を預けた。膝を伸ばして湯を蹴る。ぱしゃり、ぱしゃり、と子供の水遊びのような音を立てながら目を閉じる。瞼の裏を紅い影が通り過ぎた。 「…さなだ、ゆきむら」 思考から追い出し続けていた男の名を小さく呟く。真田、真田幸村。真田。繰り返すうち、棘の在り処が見えてくる。 忍びが駆る馬の背に、まるで荷物のように乗せられていた(あの忍びもたいがい主の扱いが荒い)赤い姿を思い起こす。撤退してゆく武田軍のなかにそれを見つけた瞬間、伊達の心を過ぎったのは宿敵を仕留め損ねたという苛立ちと―――それを凌駕する安堵だった。 ギリ、と歯を食いしばりながらも伊達は己が心と向き合う。 そうだ、安堵だ。俺はあいつを殺し損ねたことを悔しがるよりあいつが命を拾ったことを喜んだ。なんてザマだと己を罵る声に、同じ声が反論する。 あの野郎、この俺との勝負を後回しにしろとほざきやがった。武田と上杉の勝負を気にして目の前の俺に集中しきれていなかった。この竜と刃を交えながらほんの僅かとは言え余所事に意識を逸らして、挙句に竜の爪をもろに喰らっていれば世話はない。豊臣の介入がなければきっとあのまま真田の首は落ちていた。あの場でそうすることに躊躇いを覚えるほどには伊達も腑抜けていない。 だがそうなっていればさぞやお前は失望しただろうと、伊達の内なる声は言う。全身全霊、一分の隙もなくすべてを傾けて打ち合った結果の勝利でなければ決して満足できない。真田は伊達にとってそういう相手だ。 「…畜生…」 真田のせいだ。あいつがちゃんと俺だけを見て、俺のことだけ考えて槍を振るってさえいれば、こんな苛立ちは味わわなかった。あいつの首を取り損ねたことに安堵するなんて無様な真似も見せずに済んだ。 「あの馬鹿、阿呆、間抜け」 まるきり子供染みた悪態を吐きながら伊達はぐるりと身体を返した。今まで腕を乗せていた桶の縁に今度は首の後ろを預けて天井を睨む。白い湯煙のなかに浮かぶのはあの男の顔だ。 (「政宗殿」) いくさ場で見せる鬼の顔ではなく、人懐こい若者の顔で笑う。 昨年、織田信長を倒したのち傷口を開かせた伊達は再び武田のもとへと身を寄せた。その際伊達の世話役を務めたのは真田で、半月余りの短いひとときを共に過ごした。いずれまた敵対する立場となることは明らかな、双方仮初めの友誼と承知した上での交流だったが、楽しくなかったと言えば嘘になる。真田もまたよく伊達に懐いた様子を見せ、言葉でも態度でも伊達への好意を隠そうとはしなかった。その有様に互いの従者が危うさを覚えていることに気付いても、伊達は気にかけなかった。ひとたびいくさ場で出会いさえすれば互いの命を賭けて刃を交えるのだと、それ以外の係わりなど自分達にはあり得ないのだと知っていたからだ。 「…てめえだってちゃんと分かってる、って言っただろうが」 ばしゃりと水面を足で蹴り、伊達は唇を噛んだ。 (「次に会うときゃ敵同士だな。精々その牙磨いとけよ、俺を失望させねえようにな」) 奥州へ戻る日、国境まで見送りにきた真田に伊達はそう嘯いた。その大きな目を見開いた真田は、やがてゆるゆると笑みを浮かべた。伊達が一瞬息を呑むほど獰猛な、まるでけだものじみた笑顔だった。 (「無論。政宗殿こそ、よく爪を研いでおいてくだされ。それでこそ折り甲斐があろうというもの」) 獲物を見る視線を受けて、ぞくぞくと背筋を駆け抜けた興奮を伊達はよく覚えている。 再びあの焔といくさ場でまみえる日を伊達がどれほど心待ちにしていたか、あの馬鹿には分かっているのだろうか。 (「ここは、やはり引かれよ独眼竜―――!」) 「っ、馬鹿野郎が!」 記憶のなかの真田を怒鳴りつけ、伊達は立ち上がった。長く湯に浸かり過ぎたせいで一瞬眩暈がするのを気合で堪え、湯屋の隅に設置された冷水を溜めてある大甕へと足音荒く向かう。 手桶に掬った水を頭から流しかけて火照った身体を冷ます。真田への苛立ちも熱と共に洗い流してしまいたかったが、それが出来ないこともよく分かっていた。 「…次に会ったときもあんなだったら、今度こそ容赦しねえぞ…真田幸村」 即刻首斬り落として、それきりてめえのことなんぞ脳裏から消し去ってやる。 物騒な呟きを口に乗せ、伊達はもう一度冷たい水をかぶった。 (2010.07.17)
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