弐期 #06より


まるで鉛の固まりを括りつけられたように重い脚に歯を食いしばり、真田はのろのろと立ち上がった。
いつまでもここにうずくまっている訳にはゆかぬ。詫びるのも悔いるのも主の命を果たして後のことにすべしと、ともすれば挫けそうになる心を叱咤するのは己が理性の声であり、腹心たる忍びの声でもあった。
(「あの人は、あんたに詫びて欲しいなんて思っちゃいない」)
―――小山田殿。噛みしめるように亡き人の名を口内で呟き、真田は背後を振り返った。
少し離れたところで、配下の武田兵らがひとかたまりとなってこちらを見守っている。甲斐を発ってより常に真田の補佐を務めてくれた小山田信繁を始め、十数名の姿がそこには欠けていた。すべて真田の責である。真田は唇を噛んだ。力を込めすぎて歯が柔い表皮を破り、じわりと鉄錆の味が広がる。
(すべて、俺の)
主命を帯びた旅路にあって、余所事に気を取られては寄り道を繰り返し、道程を大幅に遅らせた。挙げ句に長曾我部と豊臣とのいくさに勝算もなく分け入って小山田らの命を散らせることとなったのだ。小山田らに対しても、主に対しても、なんと言って詫びればいいのか見当もつかない。
真田とて武田軍において一軍を預かる将であり、これまでにも麾下の兵を死なせたことなどいくらだってある。だがそれはすべて主たる武田信玄の命に従ったゆえの結果であり、彼らの死を悼みこそすれ、その命の重さを真田自身が背負うことはなかった。主にその甘えを許されていたのだと、今更のように真田は思い知る。
今は違う。この旅路において全権は真田に委ねられており、真田が指示を仰ぐべき存在はいない。畢竟、道中を共にするすべての者の命は真田の両肩に乗せられており、そうして今、己の未熟さゆえにその幾つかが零れ落ちて喪われた。
重い。小さく真田は肩を震わせた。酸鼻を極めるいくさ場でもこれほどに身体が重く感じられたことはない。
なんたる無様さよと己を罵りながら真田は一歩を踏み出す。
幸村殿、と気遣わしげな声をあげる男らに小さく頷き、天を仰ぎ見ればいつの間にか陽はほとんど西の地平に沈みかけている。己が判断の誤りでどれほどの時を費やしてしまったものかと改めて真田は唇を噛んだ。この上はもはや一刻も早く九州の地へ辿り着くことのみ考えねばならなかった。
「…場所を移そう。一晩休息を取ったのち、急ぎ九州へと向かう」
かしこまりまして。そう頷いた者たちが動き始める。その様を見つめながら真田は固く己が拳を握りしめた。



街道からいくらか外れた林のなかに開けた場所を見つけ、一行はそこで夜を越すこととなった。
連日の行程に加え、豊臣軍と刃を交えた後に海に流される羽目となった兵らの疲労は激しく、少ない糧食を口にした後はすぐにそこかしこで鼾の音が上がり始める。
真田はひとり、少し離れたところで膝を抱えていたが、目を閉じたところで到底眠れる心境ではなかった。
身体は疲労している。眠らねば明日からの行軍に差し支えると分かっているが、そう思えば思うほど頭のなかがなにか冷たいものに浸されているように目が冴えてしまう。閉じた瞼の裏側に小山田の顔や、旅路のなかで見聞きした民の疲弊と苦鳴、安土の廃墟で出会った松永久秀の言葉、魔王の妹の涙などが次から次へと映し出されては消え、映し出されては消えして制御出来ない。
小さく嘆息した真田は羽織っていた布を除けて腰をあげた。泥のように眠る兵らの妨げとならぬよう気遣いながらそっとその場を離れる。
木立を分けて少し行くとまた木々の開けた場所へと出た。ほう、ほう、と夜梟の鳴き声が遠く聞こえるほかは音もない静かな空間に、自然と吐息が漏れる。
ふと天を仰げばちょうど雲の切れ間から、冴え冴えとした白い三日月がその優美な姿を覗かせていた。
「……あ…」
胸の奥が軋むような感覚に、思わず右手で心の臓の上を押さえる。美しくも鋭いそのかたちが真田に思い起こさせるものはたったひとつだ。
(「豊臣の伏兵戦略の前にあえなく散ったそうだね」)
松永の滔々とした声が脳裏に響く。そんな筈はない、あの竜がその程度のことで死ぬ筈がないと、言下に否定した真田に向けられた男の目は哀れむような色を帯びていっそ優しげでさえあった。
甲斐を発つ直前、伊達の不利を聞いたときの衝撃をも呼び起こそうとする松永の言葉を努めて考えぬようにしてきた真田だが、こうして一人森と夜の静けさに身を置いてしまうともう駄目だった。
不吉な思考は連鎖し、先の戦で種子島による傷を追って倒れた伊達の青褪めた顔まで思い出してしまい、真田はぶるりと身を震わせた。
いまこのとき、あの竜がこの世に存在していないなどととても信じられない。もしも伊達の命が喪われたのならどれほど遠くにあっても己にはそれが分かる筈だと、なんの根拠もない思いに縋るような心持ちで天を仰ぐ。
(「アンタの首は俺のもの、俺の首はアンタのもの」)
それで文句はねえだろう。そう言って笑った伊達がその言葉を違える筈がない。あの方が俺以外の手にかかって死ぬなど決してあり得ぬ。そんなことになったのならば、己は―――。
「竜の旦那なら生きてるよ」
不意に落とされた声に、薄暗い思考に嵌り込みかけていた真田はびくりと肩を揺らせた。
「佐助」
呼ぶ声に応えるようにざ、と頭上の枝が揺れて忍びが姿を現した。探る目で見上げる真田に、表情らしい表情を窺わせぬまま猿飛は言葉を紡ぐ。
「竜の旦那は生きてる。くだんの包囲網を破って奥州へと戻ったらしい」
「そうか。ご無事であったか…」
「まあ無事とも言いがたいけどね」
真田は思わず安堵の息を吐いたが、続く猿飛の言葉に再び眉を寄せた。
「南部、津軽、相馬の三軍に囲まれて、満身創痍のところを豊臣秀吉に襲われたんだ。それでも生き延びたのはさすが独眼竜ってところだけど、伊達軍の被害も小さくなかったし、右目の旦那は相変わらず行方知れずときた。もちろん竜の旦那だって無傷じゃない」
伊達が置かれた状況の厳しさを、猿飛は真田へと突きつける。
「政宗殿…」
知らずその名を呟き、真田は目を閉じた。黒く閉ざされた眼裏に、ぼうとした青い光を帯びてかの人の姿が浮かび上がる。
彼が背負うのは奥州一国。いま真田が感じているものとは比較にさえならぬであろう重みをその双肩で支え、なおもふてぶてしく笑っていた。きっといま、このときでさえも彼は奥州の王として傲然と面を上げて立っている。右目たる存在を奪われ、その身を傷つけられてなお。
ぎり、と真田は拳を握り締めた。爪が手のひらに食い込むが、その痛みが今は己を奮い立たせるための梃子に思える。
―――強くなりたい。
幼い頃からの願いが真田の胸に満ちる。長く望み続けた武芸のそれではなく、己が進むべき道を迷いなく進めるだけの強さを手に入れたい。そうでなければもう二度とあの竜の前に立つことは出来ない、そんな気がした。
いつの間にか腹の底に抱えていた石のようななにかに、小さな焔が点って真田の内を照らそうとしている。幽かな光りは、果たして己が責で失われた者たちへの手向けとなるだろうか。
「んな、…旦那」
猿飛の声に真田を目を開いた。いつの間にか眼前に降り立っていた猿飛がこちらの顔を覗き込んでいる。その目の奥にたしかにこちらを気遣う色を認め、真田は僅かに目を細めた。厳しい苦言を容赦なく口にしながらも、この忍びが常に己を案じ、支えようとしてくれていることはよく知っている。
「どうした、佐助」
「俺様、一度甲斐に戻るよ」
「甲斐に?」
鸚鵡返しにした真田に、猿飛は頷いた。
「色々と大将に報告しないといけないでしょ」
「…そうか…、そうだな」
ずしりとまた胃の腑が重くなり、真田は唇を噛んだ。
「なにか言伝は?」
真田は黙って首を横に振った。この有様で主に述べられる言葉など何一つ見つかりはしない。何を言っても恐らく今は繰り言にしかならぬだろう。それは小山田らに対しても同じことだ。
お前の口からあるがままをお伝えしてくれ。かろうじてそれだけを告げた真田に、猿飛は小さく頷き、次の瞬間には姿を消していた。その残像を追うように真田は視線を天へと巡らせる。
先ほどと変わらず皓々たる光を放つ月がそこにはあった。決して手の届かぬそれに再び胸が軋んだが、真田は目を逸らせることなく憑かれたようにその姿を見つめ続ける。
あれが俺の標(しるべ)なのかもしれぬ。ぼんやりとそう思った。


(2010.09.02/11.06)

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