君の手


「政宗様、恐れ入りますがこちらにも目をお通しください」
膝の高さほどまである書き物の山を半日がかりでようやっと半分に減らしたところで、更に倍ほど積み上げられた紙の束。まじまじとそれを見やり、伊達は手にした筆を投げ出したいという衝動をかろうじて抑え込んだ。
「…おい小十郎。ちっとばかしおかしくねえか、この量」
そこまで政務を溜め込んだ覚えはない。ここのところは戦もなく、至って真面目に日々の勤めをこなしてきた筈だ。年貢の徴収時期であるのでその関連の文書が増えるのは分かるが、それにしても多すぎる。
「申し訳ございません、何故か領内各所からの陳情やらが重なりまして。それと各地の草からの報告も幾つか届いております」
「…やれやれ」
伊達は諦め半分の溜息を吐いた。どれも後回しにしてよいものではない。今日明日中には一通り目を通し、急を要するものはすぐに処理しなくてはならないだろう。
「これでも、多少はこちらで仕分けたのですが…」
片倉も必要以上に主に負担をかけることは本意でないのだろう、渋面を作っている。
「ま、そういう話なら仕方ねえよ。たまにゃそんなこともあるだろ」
もとより、忙しいことをそう苦にする性質ではない。部屋に篭って書面と睨めっこするよりは領内の視察に出る方が性に合っているが、国主として果たすべき責務を果たすことは伊達にとって息をするように当たり前の話で、そもそも好き嫌いの感情で云々すべきものではなかった。
改めて帳面やら巻き物やらの山を見下ろし、伊達は大きく息を吐いた。今度の溜息は覚悟を決めるそれだ。
「しかしこりゃあ、相当根詰めなきゃ終わりそうにねえなあ…」
草子を読むのとは訳が違う。書かれた内容の背景に何があるのか、一見響きの良い語句の裏側に隠されたものはないか、常に神経を尖らせて臨まなくては思わぬ見落としをする恐れがある。
ぱしりと己の両頬を叩いて気合いを入れ、そうしてからそれがどこぞの赤くて喧しい子虎の所作に似通っていることに気付いて一瞬渋い表情を作ったものの、伊達はすぐに頭を切り替えた。今考えるべきは、目の前に積み上げられた政務を片付けることだけの筈だ。久しく会っていない男の面影を脳裏から追い出し、伊達は書の山の一番上へと手を伸ばした。







「…、これでひと段落、か?」
「はい。残りはそう急ぐものではありませぬゆえ、明日以降でも問題ないかと」
主直筆の花押が入った書簡を手際良くまとめながら、片倉が頷く。それを聞いた伊達は足を崩し、後ろ手をついて背を伸ばした。
「はー…流石に疲れたぜ…」
丸二日と半日、食事と厠、湯浴み以外の起きている時間はほぼすべて文書の処理に費やしてきたといっても過言ではない。睡眠時間もだいぶ削った。
思い返せばどっと疲労が込み上げてくるようで、伊達はそのまま身体を後ろに倒して畳の上へ大の字となって寝そべった。
普段であれば行儀が悪いと即座に小言が飛んでくるところだが、この数日の伊達の精勤ぶりをつぶさに見てきた片倉は小さく眉を上げただけで何も言わなかった。
酷使し過ぎて霞む目を閉じ、じんじんと痺れたように痛む米神を両の手で揉みながら、伊達は外の気配に耳を澄ます。
気候の良さに開け放たれた障子の向こう、濡れ縁の先に整えられた庭で囀る鳥の声がうるさくない程度に賑やかに響く。柔らかな秋の陽射しが室内の奥まで注ぎ込み、熱のない爽やかな風が頬を撫でてゆく感覚が心地よく、ふうっと肩から力が抜けた。
そのままとろとろと微睡みかけた伊達だったが、不意に遠くから聞こえてきた叫び声のような騒音に目を開いた。
寝転んだままぐるりと視線だけを巡らせると、寝入りかけた主に掛けようとしていたのであろう薄物を手にした片倉が、眉間に皺を寄せて外を睨んでいるのが目に入る。
片肘をついて半身を起こし、伊達は小さく首を傾げた。
「…なんだ?騒がしいな」
「どうやら表門のあたりですな。見て参ります」
立ち上がった傳役が足早に外へと出て行く。その広い背中を見送り、伊達はこきりと首を鳴らした。寝入り損ねてしまったが、中途半端な時間に転寝をしては調子が狂うこともあるから返って良かったかもしれない。
「あー…しっかし肩凝った…」
起床後の素振りなど最低限の鍛錬は流石に欠かさなかったが、それでもいくらか身体が鈍っている気がして気分が悪い。今日はゆっくり休むとしても、明日は成実あたりを掴まえて一日道場に篭ってやる。一人そう心に決めた伊達は腰を上げると片倉を追うように濡れ縁へ出た。
「政宗様」
数歩も行かぬうちに足早に戻ってきた片倉と行き合う。傳役の強面には苦虫を噛み潰したような表情が浮かんでいた。
「おう、なんの騒ぎだった?」
「それが…」
「Hum?」
珍しく言い淀んだ風を見せた片倉は、だが伊達の促す視線に諦めたように言葉を継いだ。
「―――客人です」
「客ぅ?んな予定入ってたか?」
「…いつものことながら、先触れを追い越してきたらしく」
「あー…アイツか」
I see、と伊達は頷いた。言われて見れば、先程からちりちりと神経の先を灼くような微かな感覚がある。これをもたらすものはたった一人しかいない。
「どうなさいますか。本日はお疲れのことですし、明日まで待たせても構わないと思いますが」
むしろそうすべきである、と思っているのがはっきり伝わる片倉の声音と表情だったが、伊達は小さく首を横に振った。
「いや、いい。ちょっと草臥れた格好だからな、軽く湯だけ浴びてくるわ。それまでお前が相手してやってくれ」
「…かしこまりました」
「悪いな」
言いたいことを三つ四つ腹に呑み込んだ風情で首肯した傳役に軽く手を上げ、伊達は踵を返した。








「おう、真田。わりいな待たせて」
「いえ。それがしこそお忙しいところ突然の訪問、相すみませぬ」
平伏した真田の謝罪に、今更だろうと笑いながら伊達は上座へ腰を下ろした。入れ違いに片倉が席を立つ。主に軽く頭を下げ、真田にはかろうじて会釈と呼べなくもない所作で顎をしゃくって場を辞した彼を見送り、伊達は脇息に片肘をついた。
「小十郎と何話してたんだ?」
「はあ…先触れなしの訪問はいい加減控えるようにと小言を頂戴しており申した」
そうとう油を絞られたのであろう、少しばかりげっそりした表情で言う真田に、伊達はまた笑った。
「そりゃそうだろ、折角先触れを立てたってアンタがそれを追い越してちゃ意味がねえ」
「それは分かっておるのですが…政宗殿にお会いできると思うとつい気が逸りまして」
気が付けば先に立てた筈の使者がそれがしの後ろにおるのです。
至極真面目な顔でそう述べた真田に、一瞬毒気を抜かれて言葉を失う。聞きようによってはたいした殺し文句だが、真田にその自覚がないことは明らかで、伊達としては表情の選択に悩むところだ。
「政宗殿?」
「あー…まあそれはいい。で?今日はどうした」
奥州と上田は決して近いとは言い難い。それだけの距離を越えて訪れる真田幸村の用向きは九割方、主である武田信玄の遣いだ。謁見の後に必ずついてくる好敵手との手合わせこそが本当の目的ではないかとは伊達成実の言だが、それでも主の使者という大義名分がなければなかなか武田の一武将が奥州王を訪問できるものではない。
案の定、真田は懐から濃紅の袱紗を取り出した。両手で大切そうに捧げ持ったそれを、伊達へと差し出す。
「わが主、武田信玄より伊達殿への書状にござる」
「…拝見する」
受け取って袱紗を開けば、品の良い伽羅の香が匂い立った。相変わらず趣味の良いオッサンだぜと思いながらざっと書面に目を通す。
時候の挨拶に始まって、甲斐の近況を述べ、奥州のそれを尋ねる。近況といっても馬が何頭子を産んだだとか今年の葡萄の出来はいいだとか、実に気軽なものが殆どだ。
親しい友や親族に出すような内容は、今に始まったことではない。詰まるところ武田信玄の書状は単なる機嫌伺の域を出ないものが殆どで、真田が奥州を訪れる口実を作ってやっているようなものなのだ。
(はん、信玄公の親心ってか。あのオッサンもなんだかんだ言って真田にゃ甘いぜ)
片倉も、毎度真田の供をしてくる忍もとうに気付いているだろう事実を、おそらく当人だけが分かっていない。
「ま、いいけどな」
体裁がどうであれ、真田の訪れは伊達にとって喜ばしいことだ。生涯の好敵手と定めた相手である。時流が奥州と甲斐の盟約を支持する間はいくさ場でまみえることは叶わず、せめて手合わせをと望んでも上田は遠い。そうおいそれと国を空けることも出来ぬ身としては、相手がこちらへ来てくれるのを待つしかなかった。
「…?なにか仰られたか?」
「いや、こっちの話だ」
さらりとかわして書状を元通りに畳む。傍らの文箱にそれを丁寧に仕舞い、伊達は姿勢を正した。釣られたように真田の背筋も伸びる。
「信玄公にはいつもお気遣い頂き感謝している。後ほど返書を差し上げよう」
「は。伊達殿のお言葉、しかと主に申し伝えまする」
畏まって礼を取った真田に鷹揚に頷き、伊達はまた脇息へと凭れかかった。目線で真田にも膝を崩すよう伝え、にっと笑って見せる。
「どうだ、今度はしばらくこっちに居られんのか」
「はい」
打って変わっての気安い口調に、真田も破顔する。相変わらず子供のような顔をして笑う男だった。
「政宗殿のお許しが得られるのであれば、五日程滞在させて頂きたく」
「OK、上等だ」
それだけあれば思う様打ち合えるし、遠乗りに出ることも出来る。ちょうど牡蠣が美味い時期だから、海近くにある別邸へ連れていってやってもいい。
自然と浮き立つ気持ちのまま、伊達は用意されていた茶に手を伸ばした。その瞬間、左肩のあたりに引き攣れたような鈍い痛みが走り、小さく眉を顰める。
「政宗殿、どうされた?」
「なんでもねえよ」
目敏く見咎めたらしい真田が訝しげに問うてくるのを受け流し、慎重に肩を回してみる。先程のような痛みとまではいかなかったが、筋肉が不自然に詰まったような違和感があった。改めて身体の状態に意識をやれば、首筋や背の中ほどまでが鉄板を埋め込んだかのごとく凝って重い。
戦や鍛錬で身体を動かすのとは違い、文机に向かっての仕事は長時間同じ姿勢を取りがちなため、筋や骨に思わぬ負荷がかかることがある。少しばかり根を詰めすぎたか、と舌打ちした伊達に遠慮がちな声がかかった。
「もしや、肩が凝っておられるのか」
「あー…まあな、ちょっとここんとこ立て込んでて」
まあ一晩休めば治るだろ、たいしたことねえよ。
そう言って笑ってみせた伊達に、ずいと真田は膝を進めてきた。心なしか、なにやら嬉しそうな顔をしている。
「真田?」
「よろしければ、それがしが揉んで差し上げまする」
「はあ?」
人の不調を喜ぶとはどういう料簡だ、と思ったのだがどうやらそういうことではなかったらしい。今すぐにでも腕まくりしかねない勢いの真田に、僅かに伊達は腰を引いた。
「や、いいって」
「なんの、ご遠慮召さるな!」
「いや遠慮じゃなくってな。つうかアンタ一応客だろ、そんなことさせられねえよ」
伊達の言葉はあくまでも建前で、本音は別のところにある。
細っこい身体つきに見えて、真田の膂力は相当のものだ。単純な力勝負ではたいてい伊達が押し負ける。あの勢いで力任せに肩など揉まれては、凝りが解れるどころか確実に骨やら筋やらを痛めてしまう。想像するだけで肝が冷えるというものだ。
「憚りながらこの真田幸村、按摩術にはいささか自信があり申す!」
「ちょ、おい、真田…!」
「さ、はよう横になって下され」
「いや、だから人の話聞けって」
真田の大きな目に浮かぶのは純粋な好意だ。嬉しそうに見えるのは、伊達の役に立てるという喜びゆえか。
崇拝や憧憬を向けられることには慣れていても、明け透けな好意にはあまり免疫のない伊達である。どうにも調子が掴めずにいるうち、気付けばころりと畳の上に転がされていた。ご丁寧に二つ折りにした座布団が顎の下に差し込まれており、息苦しくはない。
予想外の手際良さにようよう文句を言おうと口を開いた伊達だが、ちょうどそのとき真田の両手が柔らかく肩甲骨の辺りに置かれた。着物越しにもじわりと伝わってくる温かさが奇妙に心地よく、思わずそのまま口を閉じてしまう。
まずは、軽く血の流れを整えまする。そう告げて肩先から腰、大腿部から足裏までを何度も丁寧に擦ってゆく真田の手つきはなるほど、当人の言葉通り随分と手馴れているようだった。
半ば諦めて座布団を抱え込んだ両手に顎を預けた伊達がそう口にすると、くすりと笑う声が落ちた。
「子供のころより、お館様の肩や腰を揉ませて頂いておりましたゆえ」
「ガキになにやらせてんだよあのオッサン…」
「それがしがお願いしたのでござる!あのころはまだ槍も満足に振るえず、せめてお役に立ちたいとの一念でござった」
幼い真田が小さな手で一生懸命、あの岩山のような肉体を揉んでいる光景は容易く脳裏に描けた。なかなかに微笑ましい絵ではあるが、どことなく腹立たしいような気もする。それが俗に焼餅と呼ばれる感情であると認めるのはいささか業腹だ。
伊達の複雑な内心には気付かぬ様子で、それに、と真田は言葉を継いだ。
「これもまた鍛錬になるのでござるよ」
「はあ?按摩がか」
「さよう。人の身体の造りを知れば戦場でも役立ちまする」
初めはそれほど大袈裟な話ではなく、按摩の効果を上げるために経穴について忍びに教えを請うたのだと言う。そこから発展して、五臓六腑の位置、筋と骨の繋がり、血脈の流れ。どこを傷めればどこに影響が出るのか、どこを押さえれば動きを封じられるのか。そういった諸々を幼い真田は忍びから学んだのだ。
「…へえ」
心温まるいい話の筈がなにやら剣呑な響きを帯びてきた。そうと聞かされては真田の両手に身体を預けていることが落ち着かず、伊達は身じろいで起き上がろうとした。
「政宗殿、動かないでくだされ」
「そんな話聞かされちゃ大人しくしてらんねえだろうが」
「何故でござる。これで、それがしが御身を痛めるようなことはないと分かって頂けたのではないか」
「あー…そういうことかよ」
つまりは、己の按摩の腕前を保証するための言だったらしい。
「さ、身体を楽にしてくだされ」
見上げた真田の顔があまりに衒いのない堂々としたものだったので、またも毒気を抜かれた伊達はひとつ溜息をついてその言葉に従った。
ここが肩井穴、ここが雲門穴、と楽しそうに説明しながら真田の手指は過たず凝りの酷い箇所に圧を加えてゆく。
「ここが天柱…随分と目も酷使されたようでござるな」
真田の体温は常より随分と高く、触れられているところからじわりと熱が伝わってくるのがやはりひどく心地よい。痛いと感じるぎりぎり半歩手前の力加減も絶妙だ。
(あー…やべえ、すっげえ気持ちいい、かも)
ここ数日で体内に降り積もった疲労が徐々に溶け出してゆくのが分かる。
経穴の在り処を告げてはこちらの状態を的確に言い当てる真田の声も、珍しく落ち着いていて低く、それがまた伊達の眠気を誘う。
いくら同盟国の武将であるとは言え、真田は他国の人間だ。またいつ敵対するかも知れぬ、そんな相手を前に眠りに落ちるなど警戒心の強い伊達にはあり得ない。あり得ない筈、なのだが。
(ああ…くそ)
すうっと遠のきかける意識を何度も引き戻すが、だんだんその間隔が長くなってゆく。
もういい、ここまでだと告げて起き上がろうとするのだが、身体は伊達の制御下から外れたかのように指一本満足に動かすことが出来なかった。
(こいつ、やっぱ術かなんか使ったんじゃ、ねえのか…)
「…政宗殿?」
すっかり無言になった伊達を、小さく真田が呼ぶ。その声も覆いを通したかのように遠い。
(―――落ちる)
そう思ったのを最後に、伊達の意識は睡魔の淵へと引きずりこまれる。その刹那、真田がひどく優しい声で何かを囁いたような気がしたが、その内容を吟味することは出来なかった。


(2010.04.06)

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