君の手 2


「政宗殿?」
小さく名を呼ぶと手のひらの下の背が僅かに揺れたが返る言葉はなかった。着物越しにも少し伊達の体温が上がっているのが分かる。疲労しきった身体が按摩を誘い水に睡眠を欲しているのだろうと真田を見当をつけた。
「このままお休み頂いて構いませぬよ」
囁く声に応えるようにすう、と低い息の音を立てた伊達はそのまま眠りに落ちてしまったようだ。寝息と共に小さく上下する肩を見下ろし、真田は手に加える力を少し弱めた。
伊達の呼吸に合わせるようにしながらゆっくりと凝った筋を解してゆく。真田にとっては慣れた仕事ではあるが、常ならばこの手の下にあるのは主の頑健な巨体だ。それと比べれば伊達の身体はひどく細く、頼りなささえ覚えて自然手つきは慎重なものとなる。
(―――頼りない、などと)
真田が感じていると知ればその生まれ育ちに相応しく矜持の高い伊達はさぞ怒ることだろう。六本もの刀を自在に操る彼の腕から肩、背には綺麗な筋肉がついているし、全体で見ても真田と同じかそれ以上にはしっかりした体躯だ。
だが彼はひとりの武人であると同時にこの奥州の王でもある。真田は脳裏に主の姿を思い浮かべ、目を細めた。自分とさして歳も身体つきも変わらぬこの人は敬愛して止まぬ主と同等の位置にあり、この肩に奥州という国ひとつを背負い支えている。このように疲れ果て、それでもその重みなど感じさせぬように伊達は笑ってみせた。
座布団を抱えるようにしていた右腕をそっと持ち上げ、上腕部から手先へと軽く揉み解す。伊達は心地よさげな吐息を漏らしただけで目覚める気配はなかった。
「…本当に、疲れておいでなのだな」
伊達の警戒心の強さは知っている。家督を継ぐまでも継いでからも家中に彼を廃そうとする動きは絶えず、それが生来の用心深さに拍車をかけたのだろうとは猿飛の言だ。伊達と初めて刃を合わせた後いかずちに打たれたような衝撃が覚めやらず、せめてもの名残を求めて彼についての情報を集めさせた。一見の豪快さや破天荒さだけでかの竜は測れぬのだとそのとき真田は知ったのだ。
右腕を戻して真田は立ち上がった。伊達の左側へと回り込み、左腕を手に取る。両の手で巧みに六爪を操る伊達だがやはり比べれば利き腕である右の方がいくらかがっしりしているようだ。
折りたたんだ座布団を枕のように抱え込んだ伊達は右の面を座布団に押し付けるような格好をしており、ちょうど今の真田の位置だとその顔がよく見えた。
隻眼を縁取る睫毛が呼吸に合わせて微かに震えている。あの印象的な目が閉じられてしまうとその顔は端正さばかりが際立ち、あの猛々しい竜の面影を見つけることは難しかった。真田に対し年長者であることを誇示するような振る舞いの多い伊達だが、こうして見れば彼もまた二十歳かそこらの若者なのだと分かる。武田信玄が彼を小童呼ばわりするのも頷けた。
「…う…ん、…」
見惚れているうち、知らず手が止まってしまっていた。催促するように眉を寄せた伊達が小さく呻いたのに慌てて動きを再開すると、満足げにその表情が緩んだ。まるでむずかる子供をあやしているような気分になって真田の口元も自然と綻ぶ。
(なんとも…かわいらしい)
そう思う胸の奥でちいさな熱の塊が生まれる。戦いに臨む折りの滾るような炎とは違い控えめに、だが確実にこの身体を温めるその熱がなんであるのか、真田はもう知っている。
伊達に対して恋慕の情を抱いていると気付いたのはいつだったろう。当初は誓ってそのような不埒な念はなかった。得難い好敵手に対する敬意と闘志だけが真田を駆り立てていた。だが武田と伊達が同盟を結び、主の名代として何度も奥州を訪れては伊達と仕合い、面識を深めるうち敬意は明らかな好意へと変わった。それを真田が自覚したときにはもう、真田自身にも制御出来ぬ強い感情に育ちきってしまっていた。
「…政宗殿」
右手で彼の背筋を指圧したまま、もう片方の手でそっとその髪に触れる。見目にこだわる彼らしく、艶のある髪は見た目より随分と指通りが良い。真田の訪問を受けて湯を浴びたのかほんの僅かに湿っている毛先を何度か漉くようにしても、伊達に眠りの淵から立ち戻る気配はなかった。
胸に抱いた熱の塊がぼう、とその輝きを強くする。いとおしいと思う。彼の眠りを守りたいし、この手の内で安らいでくれることがこんなにも嬉しい。だが真田の裡にはこの竜をいくさ場で屠るのは己でなくてはならぬという思いもまた確とあり続ける。初めて刃を交えたときからそれは変わらず、これもまた日を追うごとにその強さを増してゆく。
常識で考えれば到底両立し得ぬはずの感情だ。いつか心情を吐露した折り猿飛にも言われたし、自分でも他人事として聞けばそう思っただろう。だが真田のなかでこのふたつの感情の根は同じものだ。伊達に対する情念は、汲めども尽きぬ泉のように真田の奥深くからこんこんと泉のように湧いて出てとどまるところを知らない。このいとおしさも猛る闘志も、そしてとても伊達の眼には触れさせられぬようなどろどろと濁った欲すらも出処を辿れば元はひとつだ。言葉ひとつで片付けられるものではないが、あえて名付けるのならば執着と、そう呼ぶのが一番近い。彼を誰にも渡したくない。竜の独つ眼に映るのが己だけであればいい。一国の王である人には到底望むことの出来ぬ願いを、もうずっと真田は腹の奥底に抱えている。
「…ん」
むずかるように伊達が小さく身を捩った。はっと我に返った真田はひとつ頭を振って雑念を払う。過ぎた疲労があってのこととはいえ真田を信用して―――少なくとも寝首を掻くようなことはしない、程度の信は置いてくれた伊達に向けるにはいささかならず不穏当な思いだ。
こほんと誰に対してでもなくひとつ咳払いをして、真田は伊達の足元へと身体をずらした。上半身ほどではないがそれでも多少血の巡りが悪くなっている下半身を軽く揉み解し、仕上げに足裏を押してやる。力加減に注意しながら土踏まずの中央にぐっと親指を立てて押し込むと、痛んだのか伊達が鼻にかかったような呻きを漏らした。少し掠れた声はどこか色めいた風情で真田の耳朶を擽り、どくりと心臓が大きな音を立てた。
伊達の身体から手を離し、真田は固く瞼を閉ざした。大きく吸った息をゆっくりと吐き出して湧き起こった情動を逃す。瞑目したまま己のなかで脈打つ拍動に耳を澄ませ、騒がしかったそれが徐々に静まるのを待って唇を開いた。
「佐助」
真田自身にも聞き取りづらいほどの小さな声だったが、すぐに頭上から応じる声が降ってくる。伊達の忍び衆は優秀だが、同盟相手である武田相手には幾らかの目こぼしを与えてくれているらしい。あるいは伊達の指示による黙許かもしれない。
「なんですか、旦那」
「片倉殿を呼んできてくれぬか」
「はいよ」
特に聞き返すこともせず、忍びはその気配を天井裏から消した。おそらく片倉もこちらを気にかけているだろうし、そう時を置かずやってくるだろう。こうして二人きりにして貰えること自体が破格の待遇であるのだと真田もよく分かっている。
伊達の顔近くに再びいざり寄り、真田は彼の小振りな頭を囲い込むように両手をついた。障子越しに差し込む柔らかな光が遮られ白い頬から首筋、袂の辺りにまで真田が作った影が落ちる。その陰影の縁を視線で辿り、程なく消え去るほんの僅かなひとときを惜しむ。顔を寄せると伊達の微かな寝息が頬にあたり、真田は目を細めてその額に触れるか触れないかのささやかな口づけを落とした。







急いではいるが乱雑ではない足音が近づいてきたと思うと、明かり障子の向こうに人影が映る。入室の可否を問う声はやはり片倉のもので、真田は伊達から少し離れて正座で応えを返した。主ではなく真田が答えたことに一瞬戸惑ったかのように動きを止めた片倉は、失礼致しますと言いながら戸を滑らせた。
「…政宗様」
苦み走った鋭い面立ちが虚を突かれた表情を浮かべるのを、真田は苦笑して見守った。問いかける視線に簡単に経緯を伝えると、片倉は溜息交じりに頷く。
「驚いたな。政宗様が他人の前で眠ってしまわれるとは」
「よほどお疲れだったのでござろう」
「確かに、ここ数日は相当根を詰めておられたがな…」
伊達の傍らに膝をついた片倉は労わるような眼差しを年若い主に注いだ。大きな手がまるで壊れものを扱う如き繊細さをもって伊達の身体の下へと差し込まれる。だが流石に身体を抱え上げられては伊達も眠りを貪り続けることは出来なかったのだろう、眉を小さく寄せたあとゆるゆるとその独眼が開く。
「…こじゅう、ろ?」
とはいえまだ覚醒には至らぬのか、ひどく舌ったらずに伊達は腹心の名を呼んだ。片倉の目が細められる。
「そのままお休みください。いま床へお連れ致します」
「…ん、…」
子供のように素直に頷き、伊達は再びくたりとその首を傾けた。心得た様子で片倉が主の頭を己の胸元で受け止める。すっかり片倉に身体を預けた格好で伊達はまた安らかな寝息を立て始めた。
一部始終を見守った真田はそっと目を伏せた。こころの奥でなにかがちり、と焦げ付く音が聞こえる。伊達が己が右目と呼び全幅の信頼を置く男と、いずれは敵に戻る他国の一武将である真田とでは到底勝負にならぬ。そもそもなんの勝負だというのだ。真田は伊達の家臣になりたいわけでも友人になりたいわけでもない。彼の背を見るのではなく正面から彼と相対して竜の眼を見据えたいと願っている。
「悪いが中座させてもらうぞ、真田」
軽々と伊達を横抱きに抱えて立った片倉が声をかけてくる。真田は慌てて頭を下げた。知らなかったこととは言え疲れている伊達に先触れもなく無理な対面を強いた形となってしまった。詫びる真田に片倉の強面がふっと緩んだ。
「数刻もすれば目を覚まされるだろう。茶菓子の用意をさせるから、それまではここで寛いでいてくれ」
「かたじけのうござる」
「すまんな」
軽く頭を下げ、片倉は伊達を抱えて去った。ひとり残された真田はその背を見送り、そのまま縁側へと座り込む。見る者が見れば感嘆するのであろう凝った造りの庭は、だが心得のない真田の眼にはただの緑と石としか映らない。ぼんやりと綺麗に剪定された松の枝を眺めていると、らしからぬ主の様子を心配したのか猿飛が軒先に姿を現した。
「旦那、どうかした?」
「佐助」
「心ここにあらずって感じだよ。独眼竜があんなで調子狂っちゃった?」
俺様もちょっとびっくりしたよ、あの御仁があーんなに無防備なとこ見せるとはねえ。そう言って猿飛は意味ありげな目付きで真田を見下ろした。この忍びは真田が伊達に抱く強い感情を知っている。
「いや」
小さく首を振った真田はそっと眼を閉じる。眼裏に浮かぶのは先ほど焼き付いたばかりの光景だった。
「そうではない。…だがすこし、苦しいな」
ぽつりと真田が呟くと、忍びは何もかもを見通しているかのような達観した表情で仕方がないよと笑った。


(2010.05.05)

1bsr main3