君の手 3 ふっと目を開けた伊達は、辺りのうす暗さに驚いて跳ね起きた。 ぱさりと軽い音がして掛けられていた薄物が畳に落ちる。隻眼にそれを認め、己が自室で床に横たわっていたことに気付くと伊達は眉を寄せて途絶えた記憶の端を探った。 甦ったのは真田幸村の笑顔と声、そして熱を伝える手のひらの感触だった。繋がった記憶にぐうっと眉間の皺が深くなる。 「Ah…あのまま寝ちまったのかよ…」 庭に面した障子戸の向こうはまだ橙色を帯びている。意識を落としていたのはせいぜい一刻かそこらだろうが、夢も見ぬ深い眠りだったためか頭はすっきりしていた。心なしか身体も軽い。試しに腕や首を回してみても先ほどまでの途中で引っかかるような不快感は消えている。それにしてもこの自分が他人の、それも真田幸村の前でああも容易く眠りに落ちるとは我がことながら信じがたい。狐につままれたような気分さえして、伊達は小さく唸った。日の名残を受けた障子の桟が畳に濃い影を落としているのを暫し眺めてから口を開く。 「おい、誰か」 そう大きくもない声だったが、すぐに返事があり侍女がひとり姿を見せた。 「お呼びでしょうか」 「水をくれ。あと、小十郎は…」 言いかけて伊達は口をつぐんだ。馴染んだ気配が廊下を渡ってくるのを察したためだ。 「政宗様、お目覚めですか」 侍女と入れ違いで入ってきた片倉の手には漆塗りの盆があった。白湯で満たされた湯呑みを差し出され、伊達は頬を緩めた。まったく、嫌になるほど気が利く傅役だ。 程よい熱さの白湯で喉を潤し、伊達はひとつ頭を振った。 「小十郎、真田は」 「成実に相手をさせております」 先ほどまで道場で打ち合っていたが、今は湯屋にいる筈だという。 伊達は黙って腹の辺りを撫でた。己より先にあの炎と仕合った従兄弟に苛立ちめいたものを覚えたが、さすがに八つ当たりが過ぎるというものだろう。真田自身が言い出したこととは言え、仮にも客人に按摩の真似事をさせた挙げ句に寝入って相手を放置とはまったくもってcoolではない。あいつには悪いことをしたな、と珍しくも素直に思い伊達はため息をついた。 「さっきは悪かったな」 その夜、武田一行を歓迎するために設けられた宴の席である。伊達は隣に座した真田に瓶子を掲げて見せながら詫びを入れた。 宴といってもそう格式張ったものではない。この一年で真田は何度も奥州を訪れているし、供の者らも同様だ。伊達軍の気風と武田のそれは多少方向性は違えど根本的には陽の質で似通っているので馴染み易いのだろう。顔見知りとなった伊達の兵らと親しげに飲み交わす部下の姿を楽しそうに見守っていた真田は、恐縮した態で杯を空にし伊達へと差し出した。とくとくと涼しげな音をたてて澄んだ酒が器へと注がれる。決して軽い味ではない筈のそれを一息に飲み干した真田は杯を置くと手元の瓶子を取り上げた。意図を察して伊達が己の杯を差し出すと、ひどく慎重な手つきで瓶子を傾ける。 「それがしこそ、お疲れのところ無理をさせたようで申し訳ありませぬ」 注がれた酒を伊達は舐めるようにして唇を湿らせた。越後から仕入れた銘酒だ。酒は好きだがそれほど強くない伊達には少々きついが、真田が好んでいると知ってわざわざ取り寄せたものである。子供のような顔をしてまるで水のように酒を飲む真田に呆気に取られたのももう一年ほど前の話になる。 「そんなたいしたこたあなかったんだよ。アンタの按摩が効き過ぎたんだ」 驚いたぜ、玄人跣の腕じゃねえか。そう言う伊達に真田は照れたように頬を染め、お恥ずかしい限りでござると謙遜してみせた。 「おかげでずいぶん身体が軽い。明日は存分に打ち合おうぜ」 「喜んで!」 勢い込む真田の目の色が熱を帯びて濃くなる。その熱が伝播して思わず手を腰にやりかけ、伊達はかろうじて自重した。さすがに歓迎の宴の真っ最中に真剣を抜く訳にはいかない。伊達と真田との打ち合いとなれば余興の域に収まる訳もなく、そもそも伊達の刀は背後に控える小姓が預かっているし真田に至っては徒手である。思うに任せぬことだとの嘆息もこの場では憚られ、伊達は苛立ちを逃すようにひとくち酒を口に含んだ。喉を焼く熱さが胃の腑へと落ちる感覚は悪いものではないが、後が怖い。ほう、と吐き出した息も熱を帯びているようだった。 「政宗殿?」 「なんでもねえよ。…早く明日になんねえかなと思っただけだ」 早いとこアンタとやり合いたい。呟いた声に真田は一瞬動きを止め、それからゆるゆると笑んだ。 「確かに貴殿との仕合いは待ち遠しいが」 「Hmm?」 「このような…穏やかなひとときも、得難いものとそれがしは思っておりまする」 含羞んだ顔でそう言われ、伊達は口のなかの酒を吹き出しそうになった。気合で嚥下し醜態を晒すことは免れたものの、咽せて咳き込むのは堪えきれなかった。慌てた真田が膝を立てて身を寄せ、伊達の背を擦る。常であれば飛んでくるであろう片倉は宴の差配のために裏方に下がっており、傍にはいない。 「だ、大丈夫でござるか政宗殿」 「…っ、構うな、…大丈夫だ」 強い酒精に喉が焼ける。手のひらで口元を覆い、もう片方の手で伊達は真田を制した。その赤い姿が僅かに霞んで見えるのは生理的に浮かんだ涙で目が潤んでいるせいだろう。強く瞬きをすると零れ落ちた水滴が頬を流れ落ちるのが分かった。 背に触れていた真田の手が弾かれたように離れる。ひどく動揺した気配を感じ取り、伊達はもう一度目を瞬かせた。明瞭になった視界に映る真田は、何故だか頬を紅潮させて小さく唇を震わせている。 「真田?…どうした」 「い、いえ、なんでも」 「なんでもってツラじゃねえぞ。どうした、酒が回ったか」 このうわばみが酔うほどの量はまだ空けていない筈だが、伊達の介抱のために急に動いたせいかもしれない。そう思うといくらか気が咎め、伊達はようよう落ち着いた喉を撫でた。 「お開きにするにゃまだ早えが、俺たちはもう退がるか」 そこかしこで盛り上がっている配下の者たちを眺めやり、伊達は苦笑した。あれだけ酒が入っていれば、上座の伊達や真田が退席したとてさほど問題はあるまい。 「いえ、それがしはまだ」 「無理すんな。明日もあることだしな、今日はお互い早めに休むとしようぜ」 重ねて言えば、真田は渋々といった様子で頷いた。少し唇を尖らせた様はまるきり子供じみていて、伊達は笑いながらその額を指で弾いた。 「ま、政宗殿!」 「膨れんなよ。明日は一日相手してやる」 「…まことでござるか」 「おう。今日の埋め合わせも兼ねてな」 そのまま引こうとした指先を、真田の手が捉えた。厚みのある手のひらに握り込まれ真田の胸元へと引き寄せられる。思いも寄らぬ行動に唖然として反応が遅れた伊達の顔を覗き込み、真田は破顔した。 「楽しみに、しておりまする」 「…おう」 明るい茶の瞳が真っ直ぐに伊達の隻眼を射抜く。いくさ場でこの男が伊達へ向ける焔とは似て異なる熱気に戸惑いを覚え、伊達はただ短く頷いた。 「真田、手ぇ離せ」 「っ、これはご無礼仕った!」 無意識の所作だったのだろうか、急に慌てた真田は大袈裟に身を引いた。解放された指先に目線を落とす。真田の持つ火の気を移されたか、離れてなおちりちりと内から燻られている気がした。 一礼した真田が先に退出するのを見送り、伊達も立ち上がった。宴はそのまま続けるよう命じて広間から渡り廊下へと出る。秋の風が汗ばんだ首筋をさらりと撫でた。昼はともかく夜ともなればいささか肌寒さを覚える季節だが、酒精に侵された身体にはいっそ心地よい。 ゆっくりとした足取りで自室へ向かう間も意識はさきほど真田に触れられた指先へと向かう。涼風に冷やされてゆく身体のなか、そこだけが伊達になにかを訴えるように熱を放ち続けている。違和感はある。だが不快ではない。そう感じる己の心のありようが不可解で伊達は眼を細めた。 (2010.05.22)
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